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明倫養賢堂


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明倫養賢堂(めいりんようけんどう)は仙台藩藩校。単に養賢堂と略されて呼ばれることが多い。

沿革

養賢堂


後身

東北大学


1871年(明治4年)の仙台医学館廃止の翌1872年、仙台藩医学校出身者が南町に私立仙台共立社病院を開設した。これが改組・改称を繰り返して、医学教育部門が1912年東北帝国大学医学専門部として包摂された。現在は、東北大学医学部となっている。他方、病院部門は、現在東北大学病院となっている東北大学医学部附属病院の沿革

仙台一高


1871年(明治4年)、仙台医学館跡に英語専門学校として辛未館が設置された。これが改組・改称を繰り返して東華学校となり、1892年4月1日に宮城県尋常中学校となって、現在の宮城県仙台第一高等学校に繋がっている。

建物のその後


養賢堂は、幕末には額兵隊の宿舎としても使用された。額兵隊隊長の星恂太郎も養賢堂の出身である。一説には、新撰組山南敬助もここで学んでいたというが、名簿に名は見当たらないらしい。戊辰戦争を期に賊軍となった仙台藩において、養賢堂は明治政府に接収されて宮城県庁として使用された。正門だけは移され、現在では泰心院山門として残っている。その後、隣接地に新しく宮城県庁舎が出来、養賢堂の県庁舎としての役割は終わった新設された県庁舎せんだいメディアテーク)… 大正時代まで使用。。建物は、第二次世界大戦における仙台空襲で焼失した焼失前の養賢堂せんだいメディアテーク焼失前の養賢堂(せんだいメディアテーク)

正門


当初、正門は北一番丁にあったが、1817年文化14年)、勾当台通表小路に講堂と共に完成した。造りは、一四脚門であり、屋根は切妻造、棧瓦葺であり、また伊達家の家紋「三引両」と「九曜」を配した漆喰塗の棟や細部の装飾などで重厚な外観となっているのが特徴である仙台の指定・登録文化財「泰心院山門(旧仙台藩藩校養賢堂正門)」仙台市教育委員会戊辰戦争後のに正門は12で払い下げられ、泰心院(現在の住所は仙台市若林区南鍛冶町100)の山門になった逸見英夫 著「明治・大正・昭和 仙台じけん帳」(河北新報社 ISBN 4-87341-162-9)の29頁。1871年8月29日明治4年7月14日)に開始された廃藩置県により仙台藩は仙台県に移行し、仙台県庁仙台城内に設置された。しかし、間も無く仙台城が兵部省管轄となって東北鎮台が移転してくることになったため、仙台県庁は養賢堂に移転した。このとき、養賢堂正門跡に洋風の門が新たに設置された。養賢堂は仙台空襲で焼失したため、被災しなかった泰心院山門は、養賢堂の遺構として現存する唯一のものとなった。

学問


対象は八歳からで、三度落第したら退学という決まりになっていた。主に、孝経、小学本註、四書集註などを学んでいた。その後藩内各所にも学問所等が開設され、仙台藩は諸藩と比べても極めて高い教育水準を持つこととなった。林子平高野長英などはここの出身である。仙台藩には、彼らに加えて建部清庵大槻玄沢など蘭学者が多かったことから、ある時期以降は蘭学も教えられるようになった。大槻平泉が学頭となったとき、大胆な改革が行われ、以後息子の大槻習斎や親族の大槻磐渓漢学者)など、大槻氏から多くの学頭が輩出されることとなる。

歴代学頭



上記以外の出身者・関係者

  • 大槻文彦(養賢堂で学んだ国語学者。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者。大槻玄沢の孫で、大槻磐渓の息子)
  • 千葉卓三郎五日市憲法の起草者。養賢堂で学んだ)
  • 松川敏胤(明治、大正期の陸軍軍人、日露戦争の主任参謀)

脚注

関連項目


外部リンク



藩校
東北大学
仙台藩



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